家庭医の学習帳

千葉県のクリニックで子どもからご高齢の方を日々診療。心療内科・家族支援にも力を入れています。日々考えたことや勉強したことを綴ります。

在宅医療における「意思決定支援」を考える ー意思とは何か?決めるもの?ー

・何かあったら病院まで搬送するのか、家でできる範囲で治療するのか
・食べれなくなったら点滴するのか、しないで自然に過ごすのか
・寝たきりになったら自宅で過ごすのか、病院や施設で過ごすのか
・心臓や呼吸が止まったら延命治療をするのか、しないのかなど

これら一つ一つは在宅医療を行う上で話し合う重要な内容ばかりであるが、患者や家族は意見を求められても戸惑うことも多い。これらは日常とはかけ離れた内容であり、その人の最期を決めうる大事な内容なので無理もない。

そのため、これらの決定支援を行うことも医療者の大事な支援であり、それを「意思決定支援」という。在宅医療に限らず医療では、事前にどうするかを決めておくことは患者や家族が満足した医療を受けるためにも重要となる。

しかし、実際の現場では医療者の責任・リスク回避の観点ばかり強調されているようであり、意思決定支援の名のもとに「治療しないと言いましたね?」と決定の責任を患者や家族にだけ押し付けているような場面も多くみられる。

こんな重要な内容を患者・家族にだけ責任を押し付けるのは酷なことであり、最近は『Shared dicision making』のような考え方も認知されるようになってきた。本記事で意思決定支援について考察していきたい。

 

意思はそもそも決めるもの?

「意思」と似た言葉に「意志」があり、両者の意味は全く異なるが、混同されていることから意思決定支援の誤解があると考える。

「意思」は「そうしたいと思う気持ちや考え」であり、「意志」は「特定の対象に向かう意欲」である。

意思決定支援では前者が使われ、つまり「本人の思いや考えの尊重」が本来の役割であり、「どう考え、どう思うのか?」と問うことが重要である。しかし、現場では「意志の確認」とも思える「どうしたいか?」と迫ることは少なくない。

では、意思が本人の考えや気持ちだとすると、そもそもそれは決定するものなのか。確かに、本人や家族が治療や療養に対しての考えを事前にしっかりと持っていると、医療者が関わる上で見通しが得られやすく安心する。

しかし、事前に決定をしたということで、いざとなった時に思考停止や責任回避の口実にする医療者も少なくない。

「自宅で最期を過ごしたい」と事前には話していても、いざ状態が悪くなると「不安なのでやはり入院させて欲しい」と話す患者・家族は少なくないが、それでも「以前は自宅で過ごしたいとおっしゃいましたよね?」と迫るのである。事前に決めておくことでの不利益も考える必要がある。

だからといって事前に意思を確認しないことが良い訳ではない。いつかはその選択が必要な時は来るし、元気のうちからもしもの時を話し合うことは、患者・家族の療養生活の充実や満足度を高めるためにも有用とされている。

しかし、それはあくまで患者が「その時点でどう考え、どう思うか」であり、それは事情や時間経過によって変化しうることが前提である。

そう考えると、意思は「決定するもの」ではなく、あくまでその時点での考えや思いを示しているに過ぎず、もしもの時が来た時に「参考にするもの」の一つくらいに考え、何度も話し合う必要があるのではないか。

意思が表現できないことなんてたくさんある

さらに、医療現場では患者や家族の意思がわからないことなんてたくさんあり「まあ、先生の良いようにやってください」と話される方も少なくない。

治療の方針や延命治療、最期どこで過ごすなんか尋ねられても、普段の日常生活をと乖離しているので、よくわからないというのも当然である。

また、意思決定の前提には、自身で情報を的確に理解し、自由意志で判断を下して、その判断の責任は自分一人で負うというリベラリズム自由主義)的発想が根底にあるが、前提の考え自体が日本の文化とは少し異なる。

「言わぬが花」「1を聞いて10を知る」「不言実行」の言葉が代表するように、日本では言葉より行動重視、話し手が表現するより聞き手が察することが美徳とされてきた。

その中で、医療者が「どうしたいか、教えてください」と迫ること自体がそもそも患者・家族にとって大きな負担となっている可能性を考える必要がある。

日本では、患者・家族の意思を確認するだけでなく、医療者が患者・家族の意思をある程度察して表現することが求められると考える。

意思は「決める」ではなく「決まる」

では、冒頭で述べたような重要な事項が現場ではどのように決まるのか。

在宅現場での意思決定過程を振り返ると、患者・家族と支援者がある程度のプロセスを共にすることで「決まっていくもの」のように思う。そのプロセスは対話もだが、検査・治療・介護などの経験のプロセスの時もある。

例えば、本人が人に気兼ねなく自由に過ごしたいため「自宅で最期まで過ごしたい」と話される一方、家族が自宅療養で困難さを感じ「最期は病院や施設で過ごしてほしい」と考えが一致しない状況があるとする。

そうであったとしても、本人・家族が自宅療養の経験を積むことで、家族が介護に自信をつけて自宅で最期まで過せそうと決まっていくこともあれば、やはり大変なので施設にそのうち入所しようと決まっていくことがある。

また支援者も一緒に関わる中で、自宅療養が現実的かどうかも大体分かってくるので、もしもの時には家族・支援者の中でどうするか概ね決まっていくのである。

意思決定は誰かが決めるという結論(プロダクト)より、患者・家族・医療者・支援者が対話や経験の共有といった協働のプロセスが重要で、決まっていく出来事として捉える方が良いのではないか。

それで決まった内容は患者・家族と医療者のどちらに責任があるものでなく、どちらも責任を負うのである。つまり、共有されるのは対話や経験といった情報のみならず、責任も共有される。その考え方を「Shared Dicision  Making」という。

「意思決定支援」から「欲望形成支援」に

最後に哲学者の国分功一郎氏の言葉を紹介したい。彼は「意思決定支援」ではなく「欲望形成支援」と呼ぶことを提案している。

僕はむしろ「欲望形成の支援」という言い方をしたらどうだろうか、欲望形成を支援するような実践を考えたらどうだろうか、と思っています。「意思」というこのとても冷たく響く言葉は切断を名指ししていますから瞬間的です。それに対して「欲望」は過程であり、また、人の心の中で働いている力であるという意味で、どこか”熱い”過程です。

欲望を意識するのはとても難しいことです。自分のことだからこそわからない。だから周囲に手助けしてもらったり、一緒に考えたり、話し合ったりしながら、自分の欲望に気付いていく必要がある。それを支援するというならとてもいいと思うんです。

            ー 国分功一郎 精神看護 2019年1月号  ー

「決定支援」と言いながらも、大切にしたいのは結論(プロダクト)よりもプロセスであるし、支援したいものは「どう生きたいか」の前向きなものであると考えると意思ではなく欲望というのは本質をついている。

意思決定支援について様々に考察したが、個人的には今後も患者さんとの対話や経験の共有を楽しみながら、その揺らぎに許容できる懐を持って診療に携わりたい。